吉野ヶ里遺跡を訪れて感じたこと|教科書では分からなかった弥生の暮らし
吉野ヶ里遺跡という名前は、学生時代に教科書で何度も目にしてきました。弥生時代の大規模な集落として有名で、日本史の中でも重要な場所であることは知っていましたが、正直なところ「一度は行ってみたい」という程度の認識でした。
吉野ヶ里遺跡が発見された当時、邪馬台国との関係が話題になったことを記憶している方も多いのと思います。邪馬台国といえば、場所をめぐってさまざまな説が語られてきた、日本史の中でも特にロマンを感じさせる存在です。私自身も、その話題を通じて吉野ヶ里遺跡という名前を強く意識するようになりました。
実際に吉野ヶ里遺跡を訪れてみると、そうした教科書や歴史ロマンとしての知識とはまったく違う印象を受けました。広大な敷地の中を歩きながら、かつてここで人々が生活し、集落を守り、社会を築いていたことを、空気や風景として感じることができたからです。
この記事では、吉野ヶ里遺跡を実際に訪れたときの印象や感じたことを中心に、一般に知られている歴史的な背景にも触れながら、自分なりの視点でこの場所の魅力を整理します。
吉野ヶ里遺跡
まず、ゲートをくぐって中に入ると、木柵、土塁、逆茂木が並んだエリアを通り過ぎます。環濠、土塁は、同じ弥生時代の遺跡である、福岡の板付遺跡で見たことがありますが、逆茂木は初めて目にしました。説明を読み、当時の状況を想像しました。食料獲得の争いがあるのでその防御のためにあると書いてありました。
今までの弥生時代のイメージは、ムラが共同で稲作を行って平和に暮らしていたと思っていましたが、それなりに生存競争があったのだと初めて知りました。
その先の丘陵地に上って行くと、草原の遊歩道に沿って点々と茅葺屋根の建物が沢山並んでいます。遊歩道を歩いて行くとそのエリアが予想以上に広いことが分かりました。あとで知ったことでは、吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼市と神埼郡吉野ヶ里町にまたがった脊振山地の南麓に広がる丘陵地帯に位置し、その規模は約117ヘクタール(吉野ヶ里遺跡の117ヘクタールは、東京ドーム約25個分の広さになります。)という非常に広大な規模であることが分かりました。


それぞれの建物は、中に入って見ることが出来ます。そこには、それぞれの建物の用途に応じた展示物や作業をしている人の人形が配置されてリアルに当時の人々の暮らしの様子が再現されて、展示物や人形の配置によって、当時の暮らしが具体的に想像できる構成になっています。
弥生時代の人々が暮らした大規模な集落
遺跡内部は機能によって明確に区分されています。北内郭は二重の環壕で囲まれた神聖なエリアで、平面が12.3メートル×12.7メートルという弥生時代で最大級の規模の大型掘立柱建物跡や物見櫓と考えられる建物跡が発見されました。
一方、南内郭は竪穴建物(竪穴住居)を主体とした集落で、平屋の建物もいくつか存在しています。内部から出土する土器は日常的に使うものが多く、当時貴重であった鉄器を多く出土していることから、実際にクニを運営する高階層の人々の居住かつ政治活動の場であることは、建物の一つに「集会の館」という建物があり、ここは「王」や「大人(たいじん)」たちが集り儀式や話し合いをする建物であると説明があることから推測できます。
環濠集落と物見櫓が示す社会の姿
吉野ヶ里遺跡の中央のやや高くなった場所にはふたつの物見櫓が建っており、敵の侵入を監視する役割を担っていたと考えられています。下から見上げるとそれほど高いとは思えなかったのですが実際に上って見るとかなり高く、遺跡全体が見渡せます。この場所は、ムラの中核をなす場所で、柵で囲まれており、ムラはこの場所を中心になだらかに下っています。
吉野ヶ里遺跡の本格的な発掘調査が始まったのは、1986年(昭和61年)のことです。佐賀県が計画していた工業団地開発に伴う埋蔵文化財発掘調査として開始されましたのは結果として、日本史研究に大きな成果をもたらしました。発掘調査によって大きく3つののとが明らかになりました。
第一に、弥生時代のクニの姿を具体的に明らかにした点です。吉野ヶ里遺跡では、環壕で囲まれた集落の中に、祭祀の場(北内郭)、政治活動の場(南内郭)、経済活動の場(倉と市)が明確に区分されており、弥生時代後期における高度な社会組織の存在が実証されました。これは、文献史料が乏しい弥生時代の社会構造を理解する上で、画期的な発見でした。
第二に、吉野ヶ里遺跡からは、紀元前3世紀から紀元後3世紀ごろに至るまでの約700年間という長い期間を通して発展したということは、ちょうど縄文時代から弥生時代へと変わって行く時代の遺跡で、稲作が始まって、弥生時代後期の社会が形成されつつあった時期に位置づけられます。
古墳時代へと移る日本の古代のまさに変革の時代に位置する遺跡だと分かりました。
第三に、3,000基を超える甕棺墓の発見により、弥生時代の墓制や埋葬習俗、さらには当時の社会階層を知る重要な手がかりが得られました。
特に北墳丘墓からは、有柄銅剣やガラス製管玉などの豪華な副葬品が出土しており、これらは国の重要文化財に指定されています。また、首のない人骨の発見は、弥生時代における戦闘や紛争の実態を示す証拠として注目されました。
また、邪馬台国なのではないかという議論もありました。それは、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国を思わせるような壕や竪穴式住居、物見櫓などが発見されたことで、吉野ヶ里こそ、まだ発見されていない「邪馬台国」なのではないかという議論が巻き起こり、歴史に関心のある者として、強く興味を惹かれました。しかし、いまでは、邪馬台国の関連性の議論はあまりきかれません。
謎のエリアの今後
吉野ヶ里遺跡には発掘調査が行われていない「謎のエリア」と呼ばれる場所がありました。それはの日吉神社があった場所だからです。
神社の移転を機にその跡地に調査が入ることになり、2022年5月、いわゆる「謎のエリア」の発掘調査が始まった。022年5月神社の移転を機に発掘調査が始まりました。発掘調査が始まってから約1年たった後「石棺墓」が発掘されました。一時は卑弥呼の墓ではないかと注目を集めましたが、人骨や副葬品が発見されなかったことから卑弥呼の墓と裏付けることは出来ませんでした。
しかし、報道や研究発表によると、青銅器の鋳造が行われていた可能性を示す国内最古級の「青銅器の鋳型」が発見され、弥生時代の社会構造を解き明かす重要な手がかりとして注目されています。
わたしの知る限りでは、宇佐神宮は亀山と言う小高い丘の上に建っています。この亀山と言うのが卑弥呼の墓ではないかと言う説もあり、神社が立っている場所には何らかの理由があることが少なからずあるので日吉神社が建っていることがどのような意味があるのかこれからの発掘調査に注目したいと思います。
まとめ:吉野ヶ里遺跡は「知識」より「体感」の場所だった
吉野ヶ里遺跡は、これまでにない、体感型の遺跡です。弥生時代の歴史を体感する、弥生時代のテーマパークと言えるでしょう。歴史の好きな方もあまり興味がない方もぜひ一度体感することをお勧めします。
アクセス:吉野ヶ里遺跡公園は、佐賀市内からは近い場所にあります。福岡空港からも佐賀空港からも車で1時間以内。
飲食:吉野ヶ里遺跡公園は広大な敷地にあります。十分に楽しむにはたっぷり時間を取っていた方が良いでしょう。レストランやお土産売り場、トイレなどは公園の入口にあります。遺跡の中に入ると、弥生時代のムラの様子を再現しているため現代の設備はほぼありません。
所要時間:復元した建物は数多くあり、ほとんどの建物は中に入って見ることが出来ます。ざっと一通り回るのであれば、約1時間半。わたしは、写真を撮りながら、いくつかの建物の中を見て早足で回って、約3時間。これでも一部に地域には到達できませんでした。
特に歴史に興味があり全エリアをじっくり回るのであれば、ほぼ1日、歴史に関心のある方であれば、時間をかけて歩くだけの価値がある場所だと感じました。


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