仲哀天皇、神の怒りに触れる 香椎宮|神功皇后ゆかりの地を訪ねる

歩く(旅・歴史・自然)

私が香椎宮を訪れたのは、神功皇后ゆかりの地を巡り始めた頃でした。
日本書紀を読んだとき、仲哀天皇が突然崩御する場面だけは強く印象に残っていました。
そのため、香椎宮にはどこか重々しい雰囲気を想像していました。

香椎宮とは

香椎宮拝殿 撮影は筆者

香椎宮の創建は、仲哀天皇の崩御後、その霊を慰めるために神功皇后が香椎の地に社を建てたことに始まると伝えられています。香椎宮は、日本で初めて「神宮」の称号が与えられた神社とされ、その格式の高さがうかがえます。

古代において天皇や皇族を祀る神社は特別な存在であり、香椎宮は国家的な祭祀の場として重要視されてきました。

日本書紀によると、仲哀天皇は、熊襲を討とうと考えました。しかし、神が神功皇后に降りて、熊襲ではなく朝鮮半島を討つように言います。

しかし、仲哀天皇はその言葉を信じず、熊襲を攻撃しますが、勝つことは出来ず、帰還しました。

そして、天皇はたちまち病気になり崩御しました。

わたしが、随分昔に日本書紀の、現代語訳を物語として記した本を読みました。その時は、この仲哀天皇崩御の場面は強く印象に残りました。日本書紀全体を通して、この部分はかなり違和感があったからです。そして、香椎宮と言う場所については暗い印象を持っていました。

しかし、実際に訪れるとそのような暗い雰囲気は全く感じられませんでした。参拝の人の姿が多く見られました。

香椎宮の裏の顔とは

仲哀天皇崩御の地と伝わる 撮影は筆者

拝殿で参拝をして一通り境内を見て、裏から外に出た住宅地の中に「武内屋敷跡と不老水」言う場所があります。

神功皇后の新羅遠征に功績のあった武内宿禰が、香椎在陣中に居住したと伝えられています。

不老水は、皇室に献上された銘水だとのことです。

さらに別の場所に「古宮址」と書かれた森があります。

ここはひっそりとして人の姿がありません。

中に入ると、「沙庭斎場」と「棺掛椎」と説明があります。

「沙庭斎場」とは、仲哀天皇がここで政務と行った、行宮であること、「棺掛椎」は、仲哀天皇が崩御したことを隠すために、天皇のご遺体を棺に納めて、この椎の木に立て掛け天皇親政の会議が行われている様に装った場所であると書いてあります。

つまりここが仲哀天皇崩御の地であるのです。

この場所は強く印象に残りました。

武内宿禰の存在

武内神社 撮影は筆者

神功皇后ゆかりの神社を巡るようになると、武内宿禰という名前を本当によく目にするようになりました。

もうひとつ印象に残ったのは、武内宿禰の存在感が強いことです

ここにはまず「武内神社」があります。

   

朽瀬神社          長男 羽田矢代宿禰

印鑰神社(いんやくじんじゃ) 三男 蘇我石川宿禰

高陪神社           四男 蘇我石川宿禰

さらに、武内宿禰の息子たちを祀った神社が3社もあることです。

武内宿禰を祀った神社はいくつも見たことがありますが、「武内神社」とそのままの名前の神社は珍しいのではないでしょうか。宇佐神宮では「黒尾神社」と言う名前で、武内宿禰を祀っています。

しかし、なぜここまで丁寧に、息子たちを祀った神社があるのでしょうか。

わたしが訪れた日、茅葺の神門は、勅使を迎えるための準備のため改修中でした。宇佐神宮の本殿の改修も十年に一度の勅使のためと言うことで、それを知らずに訪れた、九州にふたつしかない勅祭社の改修にふたつとも当たってしまいました。

歴史や神話に関心がある方には、特に心に残る神社ではないでしょうか。

この出来事の後、神功皇后は小山田斎宮を設け、神々の怒りを鎮める祭祀を行います。


本記事は「神功皇后ゆかりの地を訪ねる」シリーズの一編です。

日本書紀に登場する神社や史跡を実際に訪ね歩きながら、九州各地に残る伝承や歴史をご紹介しています。

まとめ記事「日本書紀をたどる神功皇后伝説|九州ゆかりの史跡11選」では、シリーズ全体をご覧いただけます。

これからも九州各地に残る歴史や伝承を、自分の足で歩きながら、一つひとつ紹介していきたいと思います。

当サイトは現在、運営体制の最終確認(審査)を行っております。 その間も、国内各地の旅や観光情報は通常どおりお楽しみいただけます。 ゆっくりと更新してまいりますので、のんびりお付き合いください。
歩く(旅・歴史・自然)

コメント