私が神功皇后に興味を持ったきっかけは、各地の神社を巡るようになってからでした。
日本書紀を読んでいると、神功皇后が訪れたとされる場所が九州各地に数多く残っています。
最初に意識して訪ねたのは、2013年12月に参拝した岡湊神社でした。
その後も神社を巡るたびに、新たな伝承や史跡と出会い、気付けば日本書紀に登場する場所を一つ一つ歩いていました。
本記事では、日本書紀の記述と実際に訪れた史跡を照らし合わせながら、神功皇后の足跡をたどって行きます。
どうぞ一緒に「日本書紀を片手に九州を歩く旅」を楽しんでください。
実際に訪れた場所とその記述
| 順番 | 年代 | 日本書紀の出来事 | 訪れた場所 |
| 1 | 仲哀天皇8年 | 岡湊で船が止まる | 岡湊神社 |
| 2 | 〃 | 魚鳥池を造る | 魚鳥池・魚鳥池神社 |
| 3 | 仲哀天皇9年 | 仲哀天皇崩御 | 香椎宮 |
| 4 | 〃 | 罪を祓い過ちを改めて斎宮を作る | 小山田斎宮 |
| 5 | 〃 | 豊浦宮で殯 | 忌宮神社・仲哀天皇殯斂地 |
| 6 | 〃 | 羽白熊鷲征討 | 秋月 |
| 7 | 〃 | 田油津媛討伐 | 田川若八幡神社 |
| 8 | 〃 | 裂田の溝を造る | 裂田の溝 |
| 9 | 〃 | 刀矛を奉る | 大己貴神社 |
| 10 | 〃 | 応神天皇誕生 | 宇美八幡宮 |
| 11 | 〃 | 荒魂を祀る | 長門一宮住吉神社 |
神功皇后
神功皇后、気長姫尊は、気長宿禰王の娘で、母は、葛城高額媛、仲哀2年に、仲哀天皇の皇后になったと、日本書紀に記されています。
仲哀9年に、仲哀天皇崩御以降、羽白熊鷲征討、田油津媛討伐、朝鮮出兵と様々なことを行い、足跡や伝承を残します。日本書紀の天皇記に混じって、神功皇后記が独立してあるくらいです。
岡湊神社
水門に到るに、御船、進くことを得ず。
現代語訳(筆者による)
水門(=福岡県遠賀郡蘆屋町遠賀川河口付近 ※注釈は岩波文庫版日本書紀による)に来ると、船が進まなくなりました。

実際に訪れて感じたこと
神社は、今も遠賀川の河口近くの平地にあります。おそらく、このあたりで船が止まったのだろうと思われます。
かつては、古遠賀湾があったと伝えられ、河口はもっと広かったのかもしれません。
河口からさらに川をさかのぼるとやはり神功皇后ゆかりの「埴生神社」があり、若松から埴生神社の辺りまで、神功皇后伝説の中で重要な位置を占めていたことがわかります。
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皇后、是の魚鳥の遊びを看して、忿の心、稍に解けぬ。潮の満つるに、及びて、則ち岡津に泊りたまふ。
現代語訳(筆者による)
皇后は、魚や鳥が遊ぶのを見て、怒りもようやく和らぎました。そして、潮が満ちて来て岡津(不明 ※筆者による)に泊りました。

実際に訪れて感じたこと
船が止まった神功皇后は機嫌を損ねたのでしょうか。
魚鳥池周辺には若松の広大な田園地帯が広がっています。丁度若松半島の付け根に当たり、かつては海だったともいわれる場所で、神功皇后が船で行き来したと伝わる地域です。蜑住と言う地名から、海人族の拠点だったのではないかともいわれるそうです。
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香椎宮
九年の春二月。癸卯の朔丁未に、天皇忽ちに痛身みたまふこと有りて、明日に崩りましぬ。
現代語訳(筆者による)
(仲哀天皇)。九年二月五日。天皇は突然病気になり翌日に崩御します。

実際に訪れて感じたこと
香椎宮は実際に行くと、多くの人が訪れており日本書紀の記述のような暗さは感じません。
日本書紀の役割からして、天皇がなぜこの様な亡くなり方をしたと記述したのか、不思議な気がします。日本書紀は天皇の年代記です。仲哀天皇崩御ののち、神功皇后の一代記に代わります。
神功皇后の重要な位置づけが感じられます。
境内の裏から出て、道路を渡ると森に囲まれた一角があります。そこには「仲哀天皇崩御の地」と「香椎廟」がひっそりとあります。「廟」とはお墓のことです。人の姿はありません。
まさに、人で賑わっていた香椎宮は表の顔で、ここには裏の顔がありました。
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小山田斎宮
是を以て、群臣及び百寮に命せて、罪を解へ過を改めて、更に斎宮を小山田邑に造らしむ。
現代語訳(筆者による)
(百寮=官僚や役人の総称 ※筆者による)官僚や役人たちに命令して、罪を祓い、間違いを改めて、更に斎宮を山田邑に造らせました。

実際に訪れて感じたこと
古賀市の小山田斎宮は、その候補地の一つといわれています。
その場所は随分と入り組んだ郊外の農村地帯にあります。
表の鳥居から狭い参道の急階段を上って行きます。この場所が、どのような地形をしているのか分かりませんが、深い森に囲まれたこの急階段の登りからすると、いかにも神が降りて来そうな神奈備山を想像させます。日本書紀の小山田斎宮にふさわしいと感じる場所です。
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豊浦宮と仲哀天皇殯斂地
窃に天皇の屍を収めて、武内宿禰に付けて、海路より穴門に遷る。而して豊浦宮に、殯して、无火殯斂をす。
現代語訳(筆者による)
密かに天皇の遺体を棺に収めて、武内宿祢の授けて、船で穴門(山口県の豊浦郡とその周辺 ※岩波文庫版註)に移しました。そして、豊浦宮で殯(人が死んで葬るまでの間、屍を棺に納めて仮に安置すること。モは、喪。ガリはアガリの約という ※岩波文庫版註)をして、无火殯斂(殯斂は殯と同じ。无火は殯のとき燈火をたくところを、秘密のためたかぬことをいう。訓アガリは、身体が死んで、タマ〔魂〕が身体から遊離すること※岩波文庫版註)

実際に訪れて感じたこと
忌宮神社という名前だけ見ると、何か不吉なものを連想させますが、神社の由緒では『忌宮神社の「忌」は「齋」と同義であり、極めて神聖・清浄な宮という意味です。』とあります。
神社は、山口県下関市長府の毛利氏の城下町の一角にあります。境内の裏には「豊浦の宮址」の石碑があります。仲哀天皇と神功皇后が一時仮の御所として田尾在した場所です。
すぐ近くの日輪寺には、仲哀天皇殯斂地があります。「仲哀天皇殯斂地宮内庁」と書いた立て札があります。
柵に扉があり鍵はかかっていません。人の姿はありません。入るかどうか迷いましたが、ひとりで入る気にはなりませんでした。
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荷持田村に羽白熊鷲といふ者有り。其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔ける。
現代語訳(筆者による)
荷持田村(1和名抄の肥前国高来郡野鳥〈乃止利〉郷〔延喜式に野鳥駅。〕 今の長崎県島原市か、2筑前国夜須郡野鳥村〈今の福岡県甘木市秋月野鳥か〉の二つある ※岩波文庫版註)に羽白熊鷲いう者がいました。こわく体も丈夫で、しっかりしています。また、翼があり、速く飛ぶことが出来ます。

実際に訪れて感じたこと
神功皇后は、朝廷に従わなかった羽白熊鷲を討とうとします。
秋月は今では、「筑前の小京都」と呼ばれる人気の観光地です。羽白熊鷲は、古処山を拠点としていたと言われ、秋月はその麓にあります。
地域の伝承によると、羽白熊鷲追討のため、香椎宮を出発した神功皇后軍は、各地を巡って進軍し、最期のこの秋月で羽白熊鷲を撃ったと言うことです。
その経路に当たる場所には、様々な地名の由来や伝承の地に神社が建立されています。その数はかなりのものになります。
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田油津媛討伐
丙申に、転りまして山門県に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅ふ。時に田油津媛が兄夏羽、軍を興して迎へ来く。然るに其の妹の誅されたることを聞きて逃げぬ。
現代語訳(筆者による)
〈羽白熊鷲を撃った後〉)三月二十五日に移動して山門県(=筑後国山門郡=現在の福岡県山門郡)へと到着しました。そこで土蜘蛛の田油津媛を殺しました。そのときに田油津媛の兄の夏羽が軍を起こして迎えに来ました。しかし、妹が誅殺されたことを聞き、逃げました。

実際に訪れて感じたこと
田油津媛がなぜ神功皇后と闘うことになったかは日本書紀には記述していないので分かりません。
地元の若八幡神社の由緒には「朝廷に恨みを持ち、神宮皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援けんと」とだけ記述されています。さらに、夏羽は神功皇后によって焼き殺されたとあります。
また、神社の伝承によると、今は、「夏吉」と言う地名ですが、以前は夏羽が焼き殺された出来事から「夏焼」という地名だったそうですが、小笠原藩藩主小笠原忠真公が「夏焼」は不吉とのことで「夏吉」と変えたとのことです。
辺り一帯は、香春岳の麓の穏やかな田園地帯です。
ここに立っていると、田油津媛、夏羽の悲しい物語があったことを感じさせない風景です。
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裂田の溝
迹驚岡に及るに、大磐塞りて、溝を穿すこと得ず。皇后、武内宿禰を召して、剣鑑を捧げて、神祇を禱祈りまさしめて、溝を通さむことを求む。則ち当時に、雷電霹靂して、其の磐を蹴み裂きて、水を通さしむ。故、時人其れを裂田の溝と曰ふ。
現代語訳(筆者による)
迹驚の岡(通証に「或曰在二那珂郡安徳村〈今の福岡県那珂川市安徳一〉」という)まで掘ると、大きな岩に塞がれて、掘ることが出来ません。皇后は、武内宿祢を呼び寄せて、太刀と鏡を奉納して、神々に祈り溝を通すようにと願った。すると雷が急にはげしく鳴りその岩を打ち砕いて、水を通させました。それで、当時の人は、これを裂田の溝と呼びました。

実際に訪れて感じたこと
福岡市南区から那珂川町に自転車を走らせました。回りには福岡市の町並みがあり、マンションが林立している。遠くには山並みが広がっています。その様な場所から少し行くと突然広大な平野が開けます。そこから、周りを見回してもさっきまであった林立していたマンションの全く見えません。一瞬にして、別世界に飛び込みました。
裂田の溝に沿った路田園地帯の散策路を走って行くと、水路はさらに広くなり、豊かな水を湛えています。
いつ造られたがと言うことは明確には見当たりません。遥か昔に造られた伝説の水路が、今でも使われていて、この地域の人たちの生活を支えているのです。
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大己貴神社
秋九月の庚午の朔己卯に、諸国に令をして、船舶を集へて、兵甲を練らふ。時に軍卒集い難し。皇后曰はく、「必ず神の心ならむ」とのたまひて、則ち大三輪の社を立てて、刀矛を奉りたまふ。軍衆自づから聚る。
現代語訳(筆者による)
皇后は 秋九月十日、全国に命令して、船を集めさせ、武器を造らせました。すぐには、兵士たちは集まりませんでした。皇后は「神の意志に違いない」と言われ、すぐに大三輪の神社(延喜神名式に筑前国夜須郡於保奈牟智神社があり、今、福岡県朝倉郡筑前町弥永に大己貴神社。〈後略〉)を建立しました。兵士は、自らすすんで集まって来ました。

実際に訪れて感じたこと
由緒に、「わが国最古の神社のひとつと言われる古社」とあります。
社殿の横には森があり祠が祀られています。巨木が多くあります。神社はおそらく古くからここに鎮座しているのでしょう。わたしが訪れた時には、地元の人と思われる女性が参拝していました。
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応神天皇誕生
皇后、新羅より還りたまふ。十二月の戊戌の朔辛亥に、誉田天皇を筑紫にて生まれたまふ。故、時人、其の産処を号けて宇濔と曰ふ。
現代語訳(筆者による)
皇后は、新羅から戻ってきました。十二月十四日、応神天皇が筑紫で生まれました。そこで、当時の人は生まれた場所を、名付けて、宇美と言いました。

実際に訪れて感じたこと
新羅から帰って来た神功皇后は今の宇美八幡宮の場所で誉田天皇(のちの応神天皇)を生みます。
前皇后の皇子、麛坂王、忍熊王は誉田天皇が生まれたことを知って命を狙おうとします。
日本書紀によると、その後、大和方面で、神功皇后とふたりの皇子との戦いが描かれています。
地元の伝承によると、危険を感じた神功皇后は生まればかりの誉田天皇を連れて「翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。」つまりこの(大口嶽の乳呑坂)が今の「ショウケ越え」と呼ばれる場所です。
筑豊方面にもその行程に沿って多くの日本書紀に記されていない伝承が残っています。
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長門一宮住吉神社
是に、軍に従ひし神表筒男・中筒男・底筒男の三の神は皇后に誨へて曰はく。「我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭はしめよ」とのたまふ。時に、穴門直の祖踐立・津守連の祖田裳見宿禰、皇后を啓して曰く、「神の居しまさ欲しくしたまふ地をば、必ず定めて奉るべし」
則ちそれで踐立を以て、荒魂を祭ひたてまつるとす。仍りて祠を穴門の山田邑に立つ。
現代語訳(筆者による)
そこで、戦いに参加した、表筒男・中筒御男・底筒男の三神は、皇后に教えて諭して言いました。「私たちの荒魂を穴門の山田村に祀りなさい」と言う。すぐに、穴門の直津守の祖である田裳見宿禰が皇后に申し上げる。「神が居たいと望む場所を必ず定めて祀りなさい」そこで、踐立が荒魂を祀る。そうして神社を、穴門の山田村に建立しました。

実際に訪れて感じたこと
日本書紀によると、この出来事は、誉田天皇が生まれたすぐのちのことです。「軍」とは、朝鮮半島での戦いのことです。荒魂を祀るとは、古代の日本人は災害などが荒魂の現象と考え荒魂を畏敬の念をもって祀ったと言われています。
小山田斎宮造ったのが、山田邑で住吉神社も山田邑というのは偶然でしょうか。
下関の住吉神社は、長門一宮で、長門を代表する神社です。背後には広大な社叢が広がっています。その一角に「武内宿祢お手植えの樟」があり、その太い根元に祠が祀られています。
ここにも、神功皇后伝説が形として残っていました。
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日本書紀には記されない地元の伝承
日本書紀は国家事業として編纂された歴史書です。そのため、各地に伝わる伝承のすべてが記されたわけではなく、地域に残る伝承とは異なる部分もあります。
そう考えると、地元にしか伝えられていない歴史が各地の多く残っているのが納得できます。
そして、以前誰かが、神社はタイムカプセルだと言ったことが、今回、日本書紀と実際に訪れた場所を照らし合わせると実感させられました。
このように、実際地元の神社を訪ねると、日本書紀には記されていない由緒や伝説が今も語り継がれており、それらを比較しながら歩くことも歴史探訪の楽しさだと感じました。
そのようなことが多くあるので、神社巡りは歴史ロマンを感じさせるのです
(引用の原文は岩波文庫版による)
おわりに
神功皇后ゆかりの地を巡る旅は、日本書紀を読むだけでは分からない発見の連続でした。
神社の由緒、地域に残る伝承、田園風景、山々、そして現地で出会った人や景色。実際に九州各地を訪ね歩くことで、神功皇后という人物だけでなく、それぞれの土地が大切に守り続けてきた歴史や人々の思いに触れることができました。
日本書紀の伝承が史実であるかどうかだけではなく、その伝承が今も地域で大切に語り継がれていることこそが、この旅で最も印象に残ったことです。
このシリーズが、日本書紀の世界や九州の歴史に興味を持ち、実際に史跡や神社を訪ねてみようと思うきっかけになれば幸いです。








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